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ポイント平和学習 A魂の塔




 1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は北と南に分かれて戦闘を展開していきました。米軍は日本軍との交戦を続けながら、生き残った住民を保護し難民収容所へ入れていきました。保護された住民は自由に難民収容所から出ることも許されませんでした。米軍は住民を難民収容所へ囲ったまま「白地図に線を引くように」米軍基地建設を進めていきました。その間、住民たちは家族の生死・行方も不明なまま、あちこちの難民収容所を米軍によって転々と移動させられました。
 1946年1月、真壁村(現糸満市)米須に、真和志村(現那覇市おもろ街)の住民4300人が移動してきました。
 家族・財産・食糧・衣服などすべてを失った村民は、戦後の破壊し尽くされた土地で、まず食料の生産にあたらなければなりませんでした。しかしそこには、まだ頭髪や皮膚が付着したままの遺骨が散乱していました。村民はまだ米軍の管理下にあって、遺骨収拾は許されていませんでした。当時の村長金城和信さんは米軍へ遺骨収拾の許可を求めました。2月23日、米軍から許可が下り、村民は遺骨収拾団を組み、さっそく収骨にかかりました。拾われた遺骨は米須原の南側にうず高く積み上げられました。村長は米軍へ資材の提供を申し入れ、セメントと鉄筋代用の寝台の枠などを譲り受けました。周辺から石灰岩を拾い積み上げ骨塚が作られました。住民の手によって建立されたその慰霊碑は「魂魄の塔」と名づけられました。その後も遺骨収拾は続き、「魂魄の塔」には3万5千体が納骨されていきました。
 「魂魄の塔」に眠る遺骨はすべて身元不明者です。沖縄戦で身内を失った者にとって、「魂魄の塔」は家族の墓と同じ意味をもっています。
 ところが、復帰後の1979年2月、「摩文仁の丘」に国立戦没者墓苑が建立され、遺骨の殆どがそこへ移されてしまいました。現在、「魂魄の塔」には、わずかな遺骨しか残されていません。
 それでも「魂魄の塔」に花を手向け、お酒やごちそうを供え、亡くなった家族の冥福を祈る遺族の姿があります。6月23日「慰霊の日」には遺族をはじめ関係者が絶え間なく訪れます。近年は「慰霊の日」の混雑を避けその前後に訪れる人々もいます。
 長年「魂魄の塔」には碑文が設置されいませんでしたが、1995年、沖縄戦50回忌の年に遺族連合会によって建立されました。その碑文には「無名戦士の塔」となっています。しかし、そこに眠る魂の多くは一般住民であり、その碑文からは沖縄住民の犠牲が見えにくくなっています。



真和志村長 金城和信の像
村長の娘二人はひめゆり学徒として戦場に駆り出され亡くなった

【参考文献】
『還らぬ人とともに』若夏社編 沖縄県遺族連合会




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