月桃の花ロゴ           HOME


用語解説 沖縄戦 A強制的集団死


集団死の背景

日本軍は飛行場建設、壕掘り作業など沖縄住民を総動員して戦闘準備をしなければなりませんでした。その住民が敵に捕まった場合、日本軍はそこから軍の機密が漏れるのではないか、ということを非常に恐れていました。日本軍は住民に対して「敵は鬼畜米英である。女は強姦され殺される。男は八つ裂きにされる」、とことあるごとに敵に捕まることの恐ろしさを刷り込んでいきました。
むしろこの行為は、日本軍が侵略戦争を展開した国々で非戦闘員である一般住民に対してやってきた行為でした。敗戦の兆しが見え始め、大陸や南洋諸島(現ミクロネシア)から日本軍が撤退していく課程に於いて、「鬼畜米英」のイメージがつくられていきました。南洋諸島の地上戦が避けられない状況になると、沖縄から出稼ぎに行った人々の帰還が始まりました。その南洋引揚者からも「鬼畜米英」のイメージが伝えられていきました。
 日本軍はさらに「生きて虜囚の辱めを受けず(日本人として敵に捕まることは恥ずかしいこと、捕まる前に死ぬべし)」の戦陣訓を住民に対しても適用していきました。日本軍の「軍官民共生共死の一体化」の考えの下、死以外の道は選べないほどの恐怖心が住民に刷り込まれ、集団死へと追い込んでいったのです。

信用できない沖縄住民

 1879年の「琉球処分」以来、日本軍は沖縄県民のことを「天皇に忠誠をつくすことができない。命を懸けて国を守ろうという意識がない」と観ていました。また、他県よりも出稼ぎ移民が多く、外国と通じる沖縄県民はスパイを働く可能性がより高いとも考えていたのです。
 地上戦になってからは住民の投降も日本軍は許しませんでした。「投降する者はスパイだから殺す」と脅し、投降しようとする者は背後から射殺しました。米軍の捕虜となり住民の投降を促す役割を負わされた者がスパイと見なされ、日本軍に殺される事件も起きました。スパイの疑いを晴らすためにも、捕まる前に死をもって身の潔白を証明しなければなりませんでした。

座間味島の集団死

沖縄本島の西40kmに浮かぶ慶良間諸島の座間味島には、1940年に在郷軍人会が中心になって忠魂碑が建立されていました。忠魂碑とは日露戦争以後、戦争で殉死した英霊を祀るために建立された碑です。座間味島では翌年から毎月8日が大詔奉戴日と決められ、忠魂碑の前に集まり皇居の方角へ向かい遥拝しました。
 3年余り、毎月行われたこうした一連の儀式を通して、住民は天皇への忠誠を誓うことが刷り込まれていきました。その一つに、「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされる。その前に玉砕するべし」の教えがありました。指導的立場にあったのは、村長や助役、学校長、在郷軍人会の会員であり、1944年9月から駐留するようになった日本軍でした。
 1945年3月26日、「鬼畜」である米軍が座間味島に上陸しました。もはや死以外の道はないというほどに住民は恐怖に追い詰められ、集団死が発生していきました。手榴弾、かみそり、包丁など、あらゆる手段で住民は死に急いだのです。
 座間味村では135名が集団死の犠牲となりました。

渡嘉敷島の集団死

慶良間諸島の渡嘉敷島では、1945年3月27日夕刻、配置されていた赤松隊によって「住民は恩納河原近く西山A高地の軍陣地に移動せよ」という命令が出されました。ところが、恩納河原にたどり着くと今度は渡嘉敷区に戻るよう退去命令が出されたのです。しかし、渡嘉敷区はすでに米軍の砲爆撃の最中で戻ることは不可能でした。逃げ場を失った住民たちが、恩納河原で集団死を決行しました。
 渡嘉敷島の場合、警防団によって予め住民に手榴弾が配られていました。手榴弾が不発で死にそびれた者たちは半狂乱になって、木の枝に首をくくったり、こん棒で殴り合ったり、カミソリや包丁で頚動脈を切ったりして死に急ぎました。
 この集団死で亡くなった住民は325名。手榴弾の不発などで死を免れたものは336名いました。
 戦後、軍による自決命令があったかどうかが論議されましたが、軍の命令以前に死以外の道はないという状況が作り上げられていたのです。

集団死とは

去る太平洋戦争の末期、一般住民が死以外の選択志肢はないものと思い込まされ、親族同士で殺し合い、死んでいったことを集団死と表現しています。集団死という表現は近年から使われるようになりました。
 戦中から戦争直後にかけての住民の集団死に関しても「玉砕」と表現を用いていました。「玉砕」はもともと軍隊用語で、全力をつくして戦い、戦況が不利になればいさぎよく死ぬという意味があります。それが南洋諸島の戦闘あたりから、一般住民が「親族を殺して自分も死ぬ」ということにも使われるようになっていったのです。
 戦後、1950年に発行された沖縄タイムス社の『鉄の暴風』で「集団自決」と表記され、それをきっかけにマスコミや研究者を中心に「集団自決」と表現されるようになりました。
 「集団自決」が疑問視されるようになったのは、家永三郎(歴史研究家1913年〜2002年)氏が文部省(現文部科学省)を相手に提訴した「教科書訴訟」あたりからです。家永さんが執筆した歴史教科書の沖縄戦記述部分で「集団自決」も書くようにと文部省からの指示があり、家永三郎さんは他の修正部分と併せて提訴しました。そのことをきっかけに研究者を中心に論議が交わされました。本来、軍隊用語である自決は、国が起こした戦争のために死に追いやられた住民の死には当てはまらない、として、その後は集団死と表現されるようになっていきました。

強制的集団死

集団死は沖縄本島本島中南部の各地で発生しました。壕やガマと呼ばれる洞窟では火を燃やし窒息死しました。
 息子が老いた両親に手をかけ、親が幼い子供に手にかけていったのです。家族全員を殺し、自分も死のうとしたけれども死にきれず彷徨っているところを米軍に保護され生き残った者もいました。
 集団死が発生した地域の共通点は日本軍の影響を強く受けている、ということです。日本軍によって、あるいは戦争を扇動する者たちによって恐怖心が植え付けられ集団死が発生していきました。例え、集団死の現場に日本軍の存在がなくても、軍が刷り込んだ恐怖の影響は非常に大きかったのです。鬼畜である米軍が上陸してきたときにそれは最高潮に達しました。
 一方、日本軍との接触が少なかった地域では、住民は自らの判断で投降し助かっています。あるいは一旦死を決意しても、米軍は住民を殺さないことを知って投降し助かった者もいました。
 「住民の死に対して自決という語句を用いたら、例え鍵括弧で使用したとしても、その背景にあった皇民化教育・軍国主義教育が強調され、日本軍軍の作戦による命令・誘導・説得などによって死に追い込まれた主要な要素が裏面に隠され、結局は沖縄戦の日本軍(皇軍)を免責することになる。よって沖縄戦の本質を見誤らせることになる。」と石原昌家(沖縄戦研究家1941年〜)氏は主張しています。
 日本軍によって追いつめられた住民の集団死は「強制的集団死」とも表現できるでしょう。いずれにせよ、あらゆる手段で家族同士が殺し合い、死に急いだその様は、どのような言葉をもっても的確に表現することはできません。

*『沖縄を深く知る事典』(日外アソシエーツ株式会社発行)に掲載した原稿を修正した。宇根悦子

【参考文献】
『沖縄戦と民衆』林博史著/大月書店

『母が遺したもの』宮城晴海著


『季刊 戦争責任研究』―「戦没者の追悼と“平和の礎”」屋嘉比収著

『うらそえ文芸 第5号』―「うらそえ文芸」編集委員会「家永教科書訴訟に見る集団自決の正しい表現について」石原昌家著

お問い合わせはこちらから 海勢頭豊のライブハウス「エルパピリオン」 映画「MABUI」ホームページ