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用語解説 沖縄戦

    @6月23日 沖縄「慰霊の日」



条例で「慰霊の日」を定める

 沖縄がまだ米軍占領下にあった1961年、*立法院で戦後初めての「慰霊の日」が制定されました。当時は、沖縄守備軍第32軍牛島満司令官(1887・7・31〜1945・6・23)と長勇参謀長(1985・1・19〜1945・6・23)が自決した6月22日を組織的戦闘が終了した日として解釈し、「慰霊の日」に定めました。その後、自決した日は6月23日との証言が出てきて、1965年、「6月23日」に改められました。
 1972年、沖縄は日本復帰を迎え、沖縄にも日本の法律が適用されるようになり、新条例を制定することが必要となりました。1974年、「6月23日 慰霊の日」として県機関の休日が条例により定められました。

慰霊祭

 戦後最初の「慰霊の日」にちなんだ慰霊祭は、1962年、糸満市摩文仁の丘で行われました。約500人の遺族が、那覇から摩文仁まで平和行進し、突然の豪雨に見舞われながらも行進は続けられました。
 戦後半世紀、戦争体験者は減少しました。しかし、慰霊祭は形をかえながら今日もなお続いています。摩文仁で開催される県主催の慰霊祭の他、各地にある慰霊の塔、糸満市米須にある魂魄の塔(沖縄戦戦没身元不明者の慰霊碑)には遺族が訪れ花を手向け、水やご馳走を供え亡くなった犠牲者のやすらかな眠りを祈る姿があります。
 また、その周辺では市民団体が平和集会を開催、老若男女、国内外から数百名が集います。沖縄県民にとって「慰霊の日」とは、沖縄戦を振り返り、二度と戦争を起こしてはならないと誓いを新たにする日です。

「慰霊の日」休日廃止問題

 その「慰霊の日」の休日が廃止されそうになったことがありました。かつて、官庁および民間は土曜日も働いていました。働き過ぎの日本人として外国から批判をあびていた日本は、1988年、国の機関に土曜閉庁を導入することにしました。併せて、地方自治体の休日も国の機関に合わせることを義務づける規定が、地方自治法に初めて導入されたのです。これにともない、1989年、沖縄県は土曜日が閉庁になるならば、沖縄県独自の「慰霊の日」の休日を廃止する、という案を県議会に提出する準備をしました。「慰霊の日の休日を廃止すれば、沖縄戦は風化する」「休日の廃止は地方自治の本旨に反する」と、県民の大多数が反発しました。たちまち県民の運動は大きく広がり、各地でシンポジウムや集会が開かれました。「休日廃止案を撤回せよ」との要請が、各団体から県へ殺到しました。遺族連合会はじめ、市民団体、有識者など、世代を越えて県民が結束しました。高校生は独自のアンケート調査を実施し、大学生はシンポジウムを開きました。「休日廃止案撤回」を求めて、県民あげての取り組みが展開され、2万人もの署名が集まりました。県は県民の声を無視し続けることはできなくなり、翌年3月の定例県議会で「休日廃止案」の撤回が決まったのです。
 その後、県民の声は中央政府までも動かしました。休日に関する地方自治法の修正案が国会を通過し、「慰霊の日」の休日は認められることになりました。

「6月23日」に残された課題

 この騒ぎのなかで、新たな問題も表面化しました。一つには、戦争の首謀者である司令官・参謀長が自決した日を「慰霊の日」としたことに対する疑問。もう一つは、自決の日が6月23日ではなく、22日説が有力であるということ。米軍の記録では22日となっており、近年見つかった日本軍の日誌の中にも「22日 沖縄戦終結」と記述されています。この二つは、今後も継続して論議すべき課題として残されました。

*『沖縄を知る事典』(日外アソシエーツ株式会社発行)に掲載した原稿を加筆・修正した。宇根悦子

【参考文献】
『還らぬ人とともに』若夏社編

*立法院:米軍占領下の琉球政府立法機関。


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